株式会社I.majorの代表ブログ

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存在の不存在

人は男と女という2種類のヒトから肉体が創造される。しかし人は肉体だけではなく、魂も共存するアマルガムである。魂を一つの意思を持った一個体と考えるならば、通常は一つの肉体につき一つの魂が憑き、対となってこの世界に舞い降りてくる。しかしもし、複数の魂が一つの肉体を宿すとしたら、それはこの社会という人間の作った仮想世界に於いては、多重人格者として見做され、マイナスのイメージを持たれ健常者と定義される人間により虐げられる。この多重人格者の存在は、必ずしもマイナスなのか?何を持ってマイナスなのか。多数派が異質な者を畏怖の対象として崇めるのか、軽蔑の対象として貶すのか、はたまた無関心の対象になりうるのか。人間というものは、同じ空間にいる者に対して意識せざるを得ない生き物なので、この社会という仮想空間で巷で言われている無関心という心情は存在しない。無関心という関心なのだ。自らと異質な者であるから同じ立場だとは見做さないであろう。畏怖の対象か、軽蔑の対象か。元来のアニミズムに従えば畏怖の対象ともなり得るのだろうが、時代を経てこの現代社会に於いては、何故か軽蔑の対象となる。軽蔑し相手を見下げることで、自己肯定感を保つためであろう。人間の心理は時代の変遷と共に、その時代に順応していく。ヒト同士はヒト発生時から常に競争し対立し合っている。自己肯定感を低め弱みを見せたが最後、生き残りは難しくなる。こうして自己肯定感の低いヒトは淘汰されていき、ヒトはそれを常に生存のために保とうという心理が働くようになる。その特性は、地球でいう所の極東に居住するヒトに顕著に現れる。ヒトの発生は経度0°から始まり、東の方角へ強い者から大陸を占領していく。最も強い者はアフリカを領地とし、その次に強い者は欧州に手を伸ばす。もっともアフリカ人という人種は、全体的な相対性の意味で頭脳のIQが高く、身体能力も他の人種に比べ突出していることから納得のいくことだろう。こうして他の者は漸次に東の方へ逃れていき、最も弱い者が行き着いた先は、日本である。日本人があらゆる面で他の人種に劣り、淘汰され易い人種であるが故に、その反発によってより自己肯定感を高く維持しようという心理が、他人種に比べ顕著である。日本人の最も密集し活動な盛んな街、東京では、人間関係の様々な混沌を目の当たりにする機会が多い。それはそれだけ各々、自己の心情の対立から垣間見られることであろう。そのお陰と言いその相乗効果により経済活動も盛んとなり、世界で住み易い都市ランキングで1位の座を奪取してきた事実も納得いくことだろう。一見人間関係の混沌により住みにくいかとは思われるが、だからこそいかに住み易い環境にするかに試行錯誤を重ね、結果的に住み易い街へと変容することのできた例だと言えるのではないか。

 


そもそもヒトの発生起源は何処なのか。冒頭で男と女という2種類のヒトから創造されるとは述べたものの、その男と女もその前の尊属から生まれたはずであろう。それを辿ると一体何処に帰着するのだろうか。西洋の考えではアダムとイヴという男女が起源だと言われているが、この2人の発生経緯は如何なものか。神が創造したと言われているが、神とは一体何者なのか。端的に言えば、主観性の強い複数の人間の作った宗教という名の仮想世界の登場人物にすぎない。つまり今この社会で言われているような原理は、すべて人間の想像にすぎないので、根拠はまったくないだろう。この人間たちの心理も、自らの出所を正当化することで、先ほどの自己肯定感の高さを保ち、人類の淘汰から逃れようとしているだけの具体的な一人類によるものにすぎない。これは人類の間では共通認識なのだから、人類である限り、誰一人否定はできないはずである。この私も。つまり人類である限り、ヒトの発生起源を突き止めることは不可能なのだ。未だ明確な科学的根拠を持った説がないのは、このためであろう。これを突き止めるためには元来の人類の生存のための対立から逸脱する必要があるが、そのような者は既に淘汰されているはずで、淘汰された者が突き止めるという矛盾が生じることとなる。人類は動物という面で、1秒1秒生存の必要性が求められる存在なために、この対立から逸脱することは瞬間的に死を意味する。到底不可能だ…

 


といったシナリオを神が造っているという説も、神という存在自体が先程の人間の本能により作り出されたものにすぎないので、無理がある。

 


この世を支配しているのは誰か…この支配という概念もまた人間の本能により作り出されたものだろう…

 


ということは、ヒト個人個人が自然発生したと考えたいが、そもそも無から物体は発生し得ない。物理現象上あり得ない。何かが発生する以上、必ず物体は存在するはずであるが、その物体の出所は如何なものか。神、支配という我々人間にとって都合の良い概念なしで考えることなど可能なのだろうか…ヒト以外に焦点を当てても同じことが言える。身の回りの草木や石、水、すべての地球上のもの…地球の誕生、宇宙の存在、ビッグバンという事象の存在…そもそも生命体とそうでないものに区別されるだろうが、特に生命体の根本は、冒頭の魂であろう。魂の出所は何処か…

 


今、世界の人口は増加はしているもののその増え方が鈍化し、数十年後にはピークを迎え減少すると言われている。これを考察するに魂が肉体に宿るという過程を考え、もともと一定数の決まった数の魂が存在していたと仮定すると、人が死にまた生まれ変わる過程においては、基本的には人口が増加した分、一魂一肉体の関係性に限りなく近付き、人口が減少した分一魂が複数の肉体に宿る傾向が強まると考えられる。基本的にというのは、必ずしも全ての魂が肉体に宿るとは限らないからだ。それも一定数の遊離した魂が存在するとも考えられる。そのため、遊離した魂は定数なのだから、人口の増加傾向は前述の原則に当然に従っていると考えられる。つまり、今現在増加度合いが弱まっているということは、それだけ一魂が複数の肉体に宿る傾向が強まり、数十年後にはその肉体の限界をも超えてしまうために、人口がもはや減少してしまうという原理である。この状況に於いて言えることは、一人間は冒頭の多重人格者の可能性が高まっているということである。この原理により多重人格者の割合が大きくなり、社会問題として取り上げられるほどとなっているに違いない。昔は今ほどLGBTに関して議論されてきたことはなかったから、この原理に従っていると言える。もしそうでなければこの長い人類史で既に社会問題として取り上げられ、世界中で彼らの対応など対策が講じられてきたはずであるからだ。今になってこの問題が議題に上がってきたいうことは、そのくらいまでに一魂一肉体の原則から、外れてきたということが言えるだろう。しかしこれは魂が一定数あると固定した上での説であるから、そうでない場合は異なった見解になるだろう。しかしその場合というのは、無限に魂が湧いてくることを意味し、前述の魂の出所は何処かの解決がなされない限り、考察することは不可能である。これもまた、仮定という人間の作り出した概念に依るものであり、根本的におかしい話となってしまう…

 


一人間は、異性を愛する面と同性を愛する面を併せ持つと言われている。具体的にはヘテロセクシュアルの部分が圧倒的大部分を占め、残りをホモセクシュアルが牛耳っているのだという。そのため、一人間に発出されうる性質としては大部分がヘテロセクシュアルなために、そのままそれが発出され、それが人間の本能を動かして子孫を繁栄してきた。その傍ら、割合としては極少なくホモセクシュアルが発出される個体も存在することになる。一般的に試行回数を重ねると起こり得る確率の低い事象もその分見受けられるようになるという確率論からすると、先程の今になってLGBTが社会問題として取り上げられるという事象はこの説による要因もあると考えられる。つまり、ヘテロセクシュアルを発出できる個体数が相対的に減少することで全体的な人口の減少に繋がると考えられ、先程の魂が一定数存在するという説がたとえ担保されなかったとしても、人口減少論は肯定され得ることとなる。とどのつまり、子孫の繁栄を重ねる度に人口減少の可能性が拡大しているということになるが、今現在人口増加の度合いが鈍化しているということは、それまでは人口の増加度合いが高かったということだ。これは前述の説に反する形となる。これを考察するには、魂が一定数存在しているという説を否定せざるを得ない。つまり、解決不能な領域に突入してしまうということだ。ここで、神の手により幾分か人口数の増減が操作されていたと言いたいところだが、これは我々人間の想像上の概念なので議論の余地はまったくない。そして人類の発生起源に至っては、アダムとイヴの存在を認める上でその2人のどちらかがホモセクシュアルが発出されてしまうと子孫の繁栄は不可能という結論に至ってしまう。これまで人間とは、社会的性質を持った人間を意味しているので、一人間には異性を愛する面と同性を愛する面を併せ持つと言われているという部分には、人々が共存を続け社会的に順応していく過程でそのような性質を帯びたという考えのもとこのような述べ方をした。したがって、人々が共存をしていく前の段階であるアダムとイヴの状況では、どちらもヘテロセクシュアルが必ず発出されるという考えのもとでは成り立つと言える。しかし、根本的などちらもホモセクシュアルである可能性を否定できる材料が検討もつかないために、確固たる論拠がある説とも言えない。はたまた実は人間としてではなく、そもそも生物学的なヒトとしての性質として、ホモセクシュアルヘテロセクシュアルの二面性があるという説に従ってしまえば、同じことである。その正否も神の意図を交えざるを得ず、これもまた議論の余地はなくなってしまう。そもそも主題である人を構成する魂でさえ、魂を一つの意思を持った一個体と考えるならばと定義した時点で、我々の創造した概念である。もはや人間の主観性なしでは議論不可能である。

 


こうして紐解いてみると、世界の原理は全て人間の想像上のもので、実体を帯びないことになるのだろうか…実は我々を取り巻く世界や我々自身など、存在しなかったのだろうか…今我々が見ているものとは一体何なのか…